株式会社TIMEWELLの濱本です。
Googleのリーダーシップ開発センターを率いるアリソン・パリン氏が紹介したのは、受賞歴のある神経科学者であり起業家のアンヌ=ロール・ル・クンフ氏。彼女はかつてGoogleでデジタルヘルスプロジェクトに携わっていましたが、ある出来事をきっかけに、私たちの働き方や成功に対する考え方そのものに疑問を抱くようになりました。夢だったGoogleでの仕事、しかし常に「ここにいるべき人間ではないのでは?」という不安と隣り合わせの日々。その不安から、あらゆる仕事を引き受け、完璧なコントロールを求めて過密なスケジュールをこなす「イエスガール」となり、燃え尽き症候群寸前まで自分を追い詰めてしまったのです。ある日、腕が紫色に変色していることに気づき、病院で血栓が見つかり緊急手術が必要と告げられた瞬間でさえ、彼女はまずカレンダーを確認しようとしました。この衝撃的な経験が、彼女を「成功とは何か」「不確実性とどう向き合うべきか」という問いへと導きました。
この記事では、ル・クンフ氏が提唱する「実験的マインドセット」について、その重要性や実践方法、そしてリーダーシップや組織文化への応用まで、深く掘り下げていきます。
不確実性の時代における成功の再定義 - 実験的マインドセットの重要性 小さな実験の実践方法 - 観察から省察までのサイクル リーダーシップと組織文化への応用 - 実験を通じた成長とイノベーション まとめ 不確実性の時代における成功の再定義 - 実験的マインドセットの重要性
私たちが一般的に「成功」と聞いて思い浮かべるのは、「望ましい結果に到達すること」でしょう。辞書を開けば、そのような定義が見つかります。これは、明確なビジョンと計画を持ち、特定の目的地に到達することが成功である、という考え方に基づいています。いわゆる「線形目標」と呼ばれるものです。大学を4年で卒業し、5年間のキャリアプランを描き、30年ローンで家を買う。仕事においても、「秋にはこの機能をローンチする」「売上目標はこれだ」「そのためにこのマーケティング活動を行う」といった線形目標が溢れています。計画通りに進むことで得られる確実性は心地よいものです。しかし、ル・クンフ氏は、この線形目標に基づく成功の定義に警鐘を鳴らします。なぜなら、私たちが生きる世界は、決して線形ではないからです。市場トレンドは絶えず変化し、新しいテクノロジーが業界を一変させ、予期せぬ世界的出来事がすべてを変えてしまうこともあります。現実は、計画通りにA地点からB地点へ直線的に進むのではなく、予測不能な分岐点が無数に存在する、複雑な網の目を進んでいくようなものです。
このような非線形な世界で線形目標に固執すると、何が起こるでしょうか?計画通りに進まなかった時、私たちは自分自身を責め、失敗を他者から隠そうとさえします。目標達成へのプレッシャーは、時に私たちを過労や燃え尽き症候群へと追い込みます。ル・カンフ氏自身の経験が、まさにその典型例でした。彼女は、生産性の名のもとに自分を限界まで追い込む多くの知識労働者の姿に、現代社会が抱えるパラドックスを見出します。私たちは複雑な問題を解決し、創造的に考え、不確実性に対処するために雇われているはずなのに、いざ不確実性に直面すると、コントロールを求め、確実性を渇望してしまうのです。
それでは、どうすればよいのでしょうか?ル・クンフ氏が提示するのは、科学者の成功定義です。科学者にとっての成功とは、特定の目的地に到達することではありません。成功とは、「結果がどうであれ、何か新しいことを学ぶこと」です。予期せぬ結果が出たとき、科学者は自己否定に陥るのではなく、「おや?何が起きているんだろう?ここから何を学べるだろう?」と問いかけます。失敗は学習に不可欠な要素であると理解しているからです。
この考え方は、実は私たちの脳の働き方とも一致しています。脳は「知覚行動サイクル」と呼ばれるプロセスで学習します。まず環境から情報を知覚し、それに基づいて仮説を立てます。予測が正しければ素晴らしいですが、間違っていても、致命的な結果にならない限り、脳はその新しい情報を利用して次の予測を立てます。これが実験を通じた学習の基本的な仕組みです。しかし、脳は同時に生存のために最適化されており、不確実性をできるだけ早く減らそうとします。これは進化の過程で理にかなった機能でしたが、現代社会で私たちが単に「生き残る」だけでなく「繁栄」するためには、この不確実性への渇望を「好奇心」に置き換える必要がある、とル・クンフ氏は主張します。不確実性を脅威と捉えるのではなく、学びと成長の機会として捉えるのです。研究によれば、このような実験的なアプローチで課題に取り組むと、解決策をより早く見つけられるだけでなく、プロセスにおける不安やストレスも軽減されることがわかっています。重要なのは、スマートさではなく、訓練によってこの「実験的マインドセット」を身につけることです。
小さな実験の実践方法 - 観察から省察までのサイクル
それでは、具体的にどのようにして「実験的マインドセット」を育み、日々の仕事や生活に取り入れていけばよいのでしょうか?ル・クンフ氏は、科学的な実験プロセスを日常生活に応用する「小さな実験」というフレームワークを提案します。これは、特別な研究室や設備がなくても、誰でも、どんな課題に対しても実践できる、体系的な好奇心の育て方です。漠然とした不安を具体的な行動に変えるための、シンプルかつ強力な方法論と言えるでしょう。
実験は常に「観察」から始まります。ル・クンフ氏はこれを「自己人類学」と呼びます。まるで文化人類学者が未知の文化を先入観なく観察するように、自分自身の思考、感情、行動、働き方、生活習慣などを客観的に観察し、「なぜ私たちは物事をこのように行っているのだろう?」と問いかけるのです。これは、現状を注意深く見つめ、「どうありたいか」という未来の可能性を探るための種まきとなります。日々のエネルギーレベルの変化(何が活力を与え、何が消耗させるか)、好奇心が刺激される瞬間、逆に抵抗を感じる瞬間などを記録することが有効です。この観察を通じて、「こうすればもっと良くなるかもしれない」という仮説の芽が見えてきます。
観察によって仮説の種が見つかったら、次に「ミニ実験プロトコル」を作成します。複雑な科学実験のように厳密である必要はありません。必要な要素はたった二つです。第一に「何をテストするか(行動)」、第二に「どれくらいの期間試すか(期間)」です。例えば、「次の5日間、会議の前にアジェンダを共有してみる」「1ヶ月間、毎日15分瞑想してみる」「次の10回のプレゼンテーションで、質疑応答の時間を最初にとってみる」といった具合です。ル・クンフ氏はこれを「Pact(協定)」と呼びます。これは、結果が出るまで判断を保留し、データを集めることへの「好奇心へのコミットメント」です。期間を事前に決めることが非常に重要です。一つには、数回の試行だけでは、それが本当に効果があるのか、単なる偶然なのか判断できないためです。もう一つは、途中で期待通りの結果が見えなかった場合に、実験を中断したくなる誘惑を断ち切るためです。これは、科学者が事前に試行回数を決めるのと同じ理由で、「確証バイアス(自分が望む結果だけを探してしまう傾向)」を避けるためです。
実験期間が終了したら、最後のステップである「省察」に移ります。集めたデータ(観察記録や感覚)を振り返り、何が起こったのか、何を感じたのかをメモし、可能であれば他の人と話し合ったり、学んだことを共有したりします。ここで役立つシンプルなツールとして、ル・クンフ氏は「プラス・マイナス・ネクスト(Plus Minus Next)」を挙げています。「プラス」の列には上手くいったこと、「マイナス」の列には上手くいかなかったことや課題、「ネクスト」の列にはそこから学んだこと、そして次回の実験で試したい改善点を書き出します。この省察プロセスが、実験サイクルを完成させる上で不可欠です。行動の結果を分析し、得られた学びを次の行動計画に反映させることで、単に同じことを繰り返すのではなく、サイクルを回すごとに成長していく「成長ループ」が生まれます。この一連のサイクル、すなわち「観察→仮説(プロトコル作成)→データ収集(実行)→省察」こそが、小さな実験の核心です。
このアプローチの美しさは、その柔軟性にあります。新しいスキルの習得、新しいツールの試用、新しいリサーチ方法の探求、新しい人との繋がり方など、仕事に関するあらゆる側面に適用できます。それだけでなく、健康習慣、瞑想、創造的な趣味、さらにはデートといったプライベートな領域にまで応用可能です。文字通り、「あらゆること」を実験の対象にできるのです。
リーダーシップと組織文化への応用 - 実験を通じた成長とイノベーション
「実験的マインドセット」は個人の成長に役立つだけでなく、チームや組織全体の文化を変革する力も秘めています。特にリーダーの役割は重要です。プロジェクトやチームを率いる立場にあると、「すべてを知っている専門家」のように振る舞わなければならない、というプレッシャーを感じがちです。しかし、不確実性に直面した際にリーダーが発することができる最も強力な言葉の一つは、「私にはわかりません。しかし、一緒に答えを見つけ出しましょう」である、とル・クンフ氏は指摘します。この一言が、メンバーが安心して実験し、失敗から学び、知識を共有できる「心理的安全性の高い空間」を開くのです。
リーダーは、チームメンバーが自ら「小さな実験」を設計し、実行することを積極的に奨励すべきです。例えば、月に一度「好奇心サークル」のような場を設け、各自が行った実験の結果(成功も失敗も含めて)を共有するのはどうでしょうか。これにより、個々の学びがチーム全体の知識となり、集合知が育まれます。情報がチームメンバー間を自由に流れ、互いに刺激し合いながら成長していく「ソーシャル・フロー」の状態が生まれる可能性があります。
ただし、こうした文化を醸成するためには、前提として「成功」の定義そのものを組織レベルで見直す必要があります。線形目標に基づいた「固定された目的地への到達」ではなく、「共に新しいことを学ぶプロセス」こそが成功である、という認識を共有することが重要です。プロジェクトが予期せぬ結果に終わったとしても、それを隠蔽したり、後付けで言い訳を探したりするのではなく、「ここから何を学んだか?」「次にどう活かせるか?」をオープンに議論できる文化が求められます。失敗を報告しやすい環境を作ることは、結果的に組織全体の学習速度を高め、イノベーションを促進します。失敗は避けるべきものではなく、貴重なデータなのです。
さらに、ル・クンフ氏は、私たちが無意識に従っている「認知スクリプト」に気づくことの重要性も説いています。これは、特定の状況で私たちが「こうすべきだ」と思い込んでいる行動パターンのことです。例えば、過去の経歴に合う仕事しか探さない「続編スクリプト」、他者の称賛を得られるような選択ばかりする「観客(クラウドプリーザー)スクリプト」、常に大きなインパクトを求め、それ以外を失敗と見なす「壮大(エピック)スクリプト」などがあります。これらのスクリプトは、私たちの可能性を狭め、不必要なプレッシャーを生み出すことがあります。「なぜ自分はこのように考えているのだろう?」と自問し、スクリプトから少し外れた実験を試みることで、新たな道が開けるかもしれません。
質疑応答の中で、神経多様性を持つ人々にとって、この実験的アプローチがより自然で効果的である可能性が示唆されました。彼らの非線形な思考プロセスは、ステップバイステップの線形的なアプローチよりも、好奇心に基づいた探索的な実験と相性が良いのかもしれません。また、不安や不確実性への恐怖は完全にはなくならないものの、実験を通じて「自分には状況を変える力がある」という感覚(エージェンシー)を高めることができる、という点も強調されました。重要なのは不安を消すことではなく、不安を受け入れつつ、行動を起こすことです。実験のやりすぎにも注意が必要で、一度に多くの実験を行うのではなく、一つずつ集中して行い、学びを確実に得ることが推奨されています。
まとめ
Google出身の神経科学者、アンヌ=ロール・ル・クンフ氏が提唱する「実験的マインドセット」は、変化が激しく不確実性の高い現代において、私たちがより健やかに、そして効果的に働き、生きていくための羅針盤となり得ます。従来の線形目標に基づく成功の定義から脱却し、「学習」そのものを成功と捉え直すこと。そして、日々の課題に対して「小さな実験」を繰り返していくこと。これが、不確実性を恐れの対象ではなく、好奇心と成長の源泉へと変える鍵です。
このマインドセットの核となる考え方は、以下の3点に集約されます。
失敗は学習に不可欠な一部であると理解する。
確実性を求めるよりも、常に好奇心を優先する。
行動と省察を常に対にして、学びを次に活かすサイクルを回す。
この考え方を個人レベルで実践するだけでなく、リーダーが率先して体現し、組織文化として根付かせることができれば、そこは失敗を恐れずに挑戦できる心理的安全性の高い場となるでしょう。メンバーは量的な成果だけでなく、問いの質によって評価され、互いの実験から学び合い、イノベーションが生まれやすくなります。壮大な計画や完璧な確実性を求めるのではなく、小さな一歩を踏み出し、実験し、学び続けること。それこそが、予測不能な未来を切り拓くための、最も確かな方法なのかもしれません。「最近、どんな実験をしていますか?」「そこから何を学びましたか?」「最新の失敗談は何ですか?」そんな会話が当たり前に交わされる組織、そして社会を想像してみてください。実験的マインドセットは、その実現に向けた力強い招待状なのです。
