こんにちは、株式会社TIMEWELLの濱本です。
FDE実践シリーズの3本目です。1本目で聞く技術を、2本目で見る技術を書きました。今回はその先、現場に「いる」技術の話をします。
観察法は、担当者が何をしているかを拾います。しかし現場には、何をしているかを見ても分からないことがあります。なぜ朝礼で最初に発言するのがあの人なのか。なぜ承認画面があるのに紙で回るのか。なぜ「引き当て」と「確保」を言い間違えると空気が変わるのか。これらは行動ではなく、その集団の「当然」です。当然を拾う方法が、人類学から来たエスノグラフィーです。この記事では、エスノグラフィーがなぜ企業の現場に入ってきたのか、FDEがそれをどう使うのか、そして住み込みの請負と何が違うのかを書きます。自社のチームが現場の「当然」をどこまで扱えているかを先に確かめたい方は、AIリテラシー診断を使ってください。
人類学の方法が、コピー機の研究所を経て工場に来た
エスノグラフィーは、もともと人類学者が遠い土地の集団に住み込み、その暮らしを記述する方法でした。人類学者クリフォード・ギアツは1973年の著作で、この記述のあり方を「厚い記述」と呼びました。目配せ一つを取っても、単に「まぶたを閉じた」と書くのではなく、それが合図なのか、からかいなのか、真似なのかという意味まで書く。行動の記録ではなく、行動が持つ意味の記述です1。
この方法が企業に入った転機の一つが、1980年代のゼロックスのパロアルト研究所です。人類学者ルーシー・サッチマンは、人がコピー機を使う場面を観察し、人は事前の計画どおりに行動するのではなく、その場の状況に応じて行動を組み立てている、と論じました。1987年の著作『Plans and Situated Actions』は、機械の設計が前提にしている「計画に従う人間」と、実際の「状況の中で動く人間」のずれを、観察から示したものです2。設計者が想定した手順と、現場の人が実際にやることは違う。この発見は、そのままFDEの出発点でもあります。
2000年代に入ると、企業でエスノグラフィーを実践する人たちが集まる場ができ、製品開発や事業設計に使われるようになりました。日本でも、製造業やサービス業で、顧客や現場の「当然」を拾うために使われています。当社のエンジニアがこの方法を意識し始めたのは、観察法だけでは説明できないことに何度もぶつかったからです。手順は全部見ました。動くものも作りました。それでも使われません。理由は手順の外、その会社の当然の中にありました。
暗黙知。「人は語れる以上のことを知っている」
エスノグラフィーが必要な理由を、一言で言えば暗黙知です。哲学者マイケル・ポランニーは1966年の著作で、人は語れる以上のことを知っている、と書きました。自転車の乗り方、顔の見分け方。できるのに、どうやっているかは説明できない知識です3。現場の仕事の大半は、この種類の知識でできています。
経営学者の野中郁次郎と竹内弘高は1995年の著作で、組織が知識を作る過程を四つの段階で説明しました。共同化、表出化、連結化、内面化です。出発点の共同化は、経験を共有することで暗黙知を暗黙知のまま移す段階で、師弟関係や現場での模倣がそれにあたります4。ここが重要です。暗黙知は、会議室のヒアリングでは移りません。同じ場にいて、同じ経験をして、初めて移ります。FDEが担当者の隣に座り、同じ朝礼に出て、同じ締め日を経験する理由は、共同化のためです。
そして共同化の次が表出化、つまり暗黙知を言葉や図に変える段階です。FDEの仕事は、ここまでを一人で担います。現場で共同化し、名詞と動詞の辞書として表出化し、動くものに変えて連結化し、担当者が使うことで内面化する。野中氏らのモデルは組織の知識創造を説明するものですが、当社はこれを、FDEが現場の暗黙知を製品に変える工程の説明として読んでいます。
Palantirで8年間FDEを務めた人物は、この職種の要点を、難しい産業の業務プロセスを深く知り、その知識で本当に問題を解くソフトウェアを設計することだと書き、製品チームがFDEの作ったものを製品化する分業を説明しています5。産業の業務を深く知る、という部分が共同化で、製品化が表出化と連結化です。彼が航空機の工場に1年間通ったのは、暗黙知が1週間では移らないからです。
観察法との違い。厚さ、参与、時間
前回書いた観察法と、エスノグラフィーは何が違うのか。表にします。
| 観点 | 観察法(前回) | エスノグラフィー(今回) |
|---|---|---|
| 問い | その人は何をしているか | この集団では、なぜそれが当然なのか |
| 期間 | 数日 | 数週間 |
| 立ち位置 | 斜め後ろで見る | 朝礼や締めに参加する |
| 記録 | 時刻、動作、画面、発話、違和感 | 厚い記述。行動と、その行動の意味 |
| 成果物 | 翌日に置く動くものの候補 | その会社の「当然」の辞書と、意味の構造 |
厚さについて。観察法の記録は「承認画面を開く」で終わります。厚い記述では、「承認画面を開くが、承認者は画面を見ないので、担当者は印刷して持っていく。持っていく先の課長は、紙に押印することを『見た』の証拠にしている。だから画面上の承認は、この課では承認と見なされない」まで書きます。同じ行動に、その会社での意味を付けます。この意味が分かると、承認画面を直しても使われない理由が分かります。直すべきは画面ではなく、「見た」の証拠の置き場所です。
参与について。観察法では口を挟まず、シャドーイングでは影になります。エスノグラフィーでは参加します。朝礼に出て、締め日の残業に付き合い、昼食を一緒に取ります。参加すると観察者の影響は大きくなりますが、参加しないと分からないことがあります。朝礼で誰が最初に話すか、締め日に誰が最後まで残るか、昼食で誰が誰と座るか。これは、その会社で誰が物事を止められ、誰が動かせるかの地図です。動くものを本番に載せるとき、この地図がないと、技術的には正しいものが政治的に止まります。
時間について。観察法は数日で終わります。エスノグラフィーは数週間かかります。月末の締めは月に一度しか来ませんし、繁忙期は年に一度です。「当然」の多くは、繰り返しの中で初めて見えます。前回、観察の限界として「観察した日の、観察した人の仕事しか見られない」と書きました。エスノグラフィーは、この限界を時間で埋める方法です。
FDEのエスノグラフィーは製品を作るためのもの。住み込みの請負との違い
ここで、受託開発との違いを明確にしておきます。数週間現場にいる、というだけなら、常駐のシステム開発と変わりません。違いは三つあります。
一つ目は、対象です。受託の業務分析は「業務」を対象にし、業務フロー図と要件定義書を作ります。FDEのエスノグラフィーは「その会社の当然」を対象にし、意味の辞書を作ります。業務フロー図には「承認」と書かれますが、意味の辞書には「この課で承認とは、課長が紙に押印することを指す」と書かれます。動くものを作るときに要るのは後者です。
二つ目は、成果物の行き先です。受託なら、分析の結果は顧客の資産になり、次の案件では別の顧客で一から分析し直します。FDEでは、学んだことは自社製品の標準機能に返ります。「承認とは押印のことである会社」が3社続けば、それは型であり、製品が「承認の証拠の置き場所」を設定できるようになります。次の顧客では、同じ当然を学び直す必要がなくなります。a16zは2026年1月の論考で、成熟した顧客で工数が減っているかをFDEの型を見分けるテストに挙げていますが6、エスノグラフィーで学んだ当然が製品に蓄積されていれば、工数は減ります。減らないなら、それはエスノグラフィーではなく常駐です。
三つ目は、時間の区切りです。エスノグラフィーは数週間かかりますが、終わりがあります。AWSが2026年6月に立ち上げたFDE組織は、終了時に顧客が自走できる状態を残すことを設計の中心に置いています7。当社も同じで、現場にいる期間は最初に決め、その期間の中で、動くものと意味の辞書と、担当者が自分で直せる状態を残して出ます。住み込みの請負は長くいるほど売上が立ちますが、FDEのエスノグラフィーは早く出られるほど、製品に返った学びが多かったことになります。
Palantirの商用部門を率いた人物は、FDEを顧客の事業の「権限ゼロのCEO」と呼び、顧客のミッションに深く関わることを求めました8。深く関わることと、長くいることは別です。深く関わるために現場の当然を学び、学んだら製品に返して出る。この順番が、住み込みの請負との境界線です。
現場での手順。参与する、厚く書く、意味の辞書を作る
具体的な手順を書きます。当社のエンジニアが数週間の滞在でやることです。
まず、参加する場を決めます。朝礼、週次の会議、月末の締め、そして昼食です。全部に出る必要はありませんが、朝礼と締めは外しません。朝礼では発言の順番と、誰の発言に誰がうなずくかを見ます。締めでは、手順書にない手順がいちばん多く現れます。昼食は、質問ではなく雑談の場にします。「実はあの帳票、誰も見てないんですよ」は、昼食でしか出てきません。
次に、三層で書きます。一層目は現場での走り書きで、観察法の五列と同じです。二層目はその日の夜に書くフィールドノートで、走り書きに文脈を足します。「承認画面を開いたが使わなかった」に、「承認者が画面を見ない、と本人が言った。隣の係も同じ運用」と足します。三層目は週末に書くメモで、その週に見えた「当然」を書き出します。「この課では、承認の証拠は紙の押印である」。三層目が、厚い記述にあたります。
そして、意味の辞書を作ります。その会社の名詞と動詞を、システム用語に翻訳せずに、その会社での意味と一緒に書きます。「引き当て。在庫を特定の注文に割り当てること。確保とは別で、確保は営業が口頭で押さえた状態を指す。引き当てなしの確保が月末に問題を起こす」。この辞書は、1本目のインタビューで集め始め、2本目の観察で確かめ、エスノグラフィーで意味を厚くします。そして次の記事以降で扱う、AIが辿れる意味の構造の原型になります。
書くときに気をつけていることが一つあります。「当然」に印をつけることです。担当者が「普通は」「だいたい」「うちでは」と言ったら、その後に続く言葉に印をつけます。この三つの言葉の後には、その会社の当然が来ます。「普通は係長が見てから課長に回します」。この一文には、承認の順番と、係長の役割と、課長が細部を見ないことが入っています。
当社の実践と限界
正直に書きます。当社は小さな会社で、エンジニアを数週間ひとつの現場に置くことは、軽い判断ではありません。それでも置く理由は、当然を学ばずに作ったものが、技術的に正しくても使われない場面を、これまで何度も見てきたからです。手順は全部見ました。動くものも置きました。担当者は「いいですね」と言いました。それでも翌月、その画面は開かれていません。理由を辿ると、その会社の当然に触れていました。
限界も書きます。数週間では、年に一度の繁忙期は見られません。見られない当然は、1本目で書いた出来事ベースのインタビューで聞きます。「去年の繁忙期、いちばん困った件は何でしたか」。それから、参与は観察者の影響を大きくします。朝礼に外部の人間がいれば、朝礼は変わります。当社は、変わることを前提に、変わる前と変わった後の両方を書き、差分から「見せたい当然」と「本当の当然」を分けています。守秘と同意については、前回書いたとおり、誰の何を、いつ、何のために、記録をどう扱うかを最初に決めます。エスノグラフィーは観察より深く入るので、この約束はさらに重くなります。
AIをどう使っているかも書いておきます。三層のノートのうち、一層目の走り書きと二層目のフィールドノートは、AIに読ませて、頻出する名詞と動詞、「普通は」「うちでは」の後に来る語を抜き出させています。辞書の下書きを作る速さは、機械のほうが上です。ただし三層目、その語がこの会社で何を意味するかは、人が書きます。意味は頻度からは出てきません。同じ「承認」という語が、課によって押印を指したり画面の操作を指したりすることは、そこにいた人にしか分かりません。
まとめ
観察法は「何をしているか」を、エスノグラフィーは「なぜそれが当然なのか」を拾います。方法は人類学から来て、ゼロックスの研究所で「計画どおりに動く人間」の前提を崩し、企業の現場に入りました。根拠は暗黙知です。人は語れる以上のことを知っていて、その知識は同じ場にいることでしか移りません。だからFDEは数週間、現場にいます。
住み込みの請負と違うのは、対象が業務ではなく「当然」であること、学びが顧客の資産ではなく製品の標準機能に返ること、そして期間に区切りがあり、早く出られるほど良いことです。手順は、参加する場を決め、三層で書き、意味の辞書を作り、「普通は」「うちでは」の後に印をつけることです。
現場の当然を拾えるエンジニアのチームを作りたい方、あるいは自社の当然を製品に変える相手を探している方は、WARPのプログラムをご覧いただくか、個別相談でお話ししましょう。次の記事では、集めた断片を構造に変える方法として、川喜田二郎のKJ法を扱います。
Footnotes
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Geertz, C. (1973). The Interpretation of Cultures. Basic Books. 出版社ページ。「厚い記述(thick description)」は同書第1章による ↩
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Suchman, L. A. (1987). Plans and Situated Actions: The Problem of Human-Machine Communication. Cambridge University Press。増補版は Suchman, L. A. (2007). Human-Machine Reconfigurations: Plans and Situated Actions (2nd ed.). Cambridge Core ↩
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Polanyi, M. (1966). The Tacit Dimension. University of Chicago Press(2009年再刊)。「we can know more than we can tell」は同書による ↩
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Nonaka, I., & Takeuchi, H. (1995). The Knowledge-Creating Company. Oxford University Press。共同化・表出化・連結化・内面化のモデルは同書による ↩
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The Palantirization of everything(Marc Andrusko、a16z、2026年1月16日) ↩
-
AWS invests $1 billion to embed AI forward deployed engineers with customers(Amazon、2026年6月30日) ↩






